『利他と料理』から読む料理と感性

最終更新: 1月8日



愛すべきアート人たちは、美味しいものが好きだ。たいていは男女を問わずに自分で料理をする。そして、料理をする目的はあくまでも「美味しいものが食べたい」という純粋な欲望であり、「母として、女として、料理はできねばならない」だの、「料理ができた方がモテる」のような、べき論やあざとさとは無縁であるのが特徴だ。


私自身も料理が好きで、気がむけばつくる。数年来の友人グループであつまって合宿をした際は、料理担当を頼まれて、初日につくった鍋やら鶏肉やらを、アレンジして朝も晩も出し続けていた。わりに人数も多かったので、手抜きした感じではあったのだが、後で随分と褒められたのだった。


「みんな、すげーって言ってたよ。隠れた才能だと思ったよ。ひけらかすでもなく、淡々とあるものでつくって、美味しくて」


嬉しい言葉だった。2日目の晩なんて、みなだらけきって手伝いもせずに、食卓でお母さんのご飯を待つ子供たちみたいになっていたというのに。


みんな大好き料理研究家の土井先生と政治学者の中島岳志さんのオンライン対談を収録した『利他と料理』を読んで、なにか、自分が大切にしてきた世界観が言語化されているようで、すーっと気持ちがよくなった。アートや料理に触れる日々の暮らしの中で、ひとりで感じ続けていたことが、外の世界とぱちっと繋がったような広がりを得られたように思う。


利他と料理

土井善晴、中島岳志

ミシマ社





琴線に触れた箇所をいくつか私なりに要約してみたい。


□手料理は、つくる相手の居場所をつくる。そして、作っている行為がすでに「愛している」という表現だし、食べている行為が「愛されている」と愛を受け取る行為になっている。


□レシピは近代的な設計主義。レシピに依存すると、人間は五感を使わなくなる。なにかに依存すると感性はやすんでしまう。


□家庭料理と民藝というのは、人の暮らしの中から、美しいものができてくる。


□料理というのは、美の問題。数学や化学ではなく、情緒でなくては言い表せない。



土井先生と中島さんの対談は、暖かなカボチャスープのように滋味深い。そして、ここで語られる料理は、「アートとは何か」という深遠な問いと響き合っているように感じる。料理とアートは、技術や美意識といったハイエンドで非日常に存在する感性が生み出すもののみならず、日常の中で人がどう生きていくのかという日々の感受性においても、重なる部分の多い存在なのである。


料理をして美味しさを味わうことは、アートを賛美して(つくり)よく味わうことと、よく似ている。土井先生のいう「ケハレ(日常)」において、たっぷりと料理とアートを味わうことは、人の感性を育てていくことでもある。その様は、文化が芽吹き続けていることと同義であるといったら大げさだろうか。


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